濫用されるマズローの法則

社会人としての心構えや自己啓発に関する本が多く流通しております。仕事のモチベーションアップやマーケティングなどに関する本にたびたび登場する概念の一つに「マズローの欲求5段階説」があります。これは新入社員のOJTに関する書籍などでも頻繁に取り上げられています。しかし、この概念は、広まるにつれて、様々な誤解、拡大解釈や、独自の解釈が入り込みます。本来な定義とは異なった勝手な扱われ方をしている場合には要注意です。その中でも、一番危険なのは、科学ならず疑似科学の領域に入り込み、真理ではなく、価値観の押し付けに近い、危険な使われ方をすることです。

マズローの欲求5段階説」とは

そもそも、「マズローの欲求5段階説」とは何でしょうか? 人間の欲求には「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5段階がある、という主張です。そして、本によっては、「生理的欲求」を低位の欲求とし、それが充足されることによって、より高位の欲求が現れるとし、「自己実現の欲求」が最も高位の欲求であるとされています。

マズローの欲求5段階説」を解釈する上での注意点

注意しなくてはならない点は、このマズローの欲求5段階説」は、何らかの科学的な方法によって検証されたものではない、という点です。むしろ、科学的には既に否定された概念です。確かにマズローは著名な心理学者だが、人間の欲求を大別して、考察をする上で用いた仮の枠組みに過ぎないのです。

マズロー自身は、人間の欲求を5種類に大別して、心理学的な研究を行ったものの、これを図1のようなピラミッドの構造で表現したのはマズロー自身ではありません。この階層構造は、マズローの著作が解釈され、多くの人に共有化されるに伴い、伝言ゲームのように独自の解釈が入り込み、元の著作の趣旨と異なって解釈されてきた結果生まれたものといえます。

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図1

さらに、この欲求5段階説に対する批判としては、このマズローの欲求の階層構造が、イデオロギー性を帯びているという点にあります。イデオロギーというのは、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」、言い換えると、「歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系」のことです。

たとえば、仕事に対するモチベーションを例にとると、お金を得ることを主目的に働いている人はレベルが低く、夢の実現に向かって働いている人はレベルが高いといった、優劣の価値観の押し付けにつながります。それは誰が勝手に決めつけて良いだ、と思いませんか?確かに、多くの書籍ではこの点に注意して書かれており、働く目的、すなわち、働くことで満たしたい欲求は「人それぞれであって、その人に合わせた対応や助言をすることが、本人のモチベーションアップに有効」とされています。それでも、「どのような欲求を持つことが適切か」という優劣を付けていなくても、その書籍に登場する「ピラミッド型の図」そのものが価値観の押し付けにつながる拡大解釈を招く危険を孕んでいます。

マズローの5つの欲求分類は、あくまでも、「このような視点を借りることで、より適切な助言や対応ができるようになる」、といった一つのツールとして使うべきと思います。価値観は人それぞれであり、それは守られるべきです。

ピラミッド構造の別の解釈

最後に、かなりの私見を書きます。例のピラミッド構造が既に書籍や人々の概念の中に浸透している今では、一斉廃止することは不可能でしょう。一方で、必ずしも、最下位の「生理的欲求」やその次の「安全の欲求」を「一番レベルが卑しい」ものと解釈する必要がありません。それらをむしろ上からくる他のすべての欲求の「前提」「基礎」と思うことが出来ます。我々は動物としての生理的欲求が満たされてはじめて脳がより複雑な思考に移ることが出来ます。また身の危険を感じている場合(安全の欲求が満たされていない場合)に仕事のモチベーションまで頭を回せる人は少ないでしょう。

担当者:ヤン・ジャクリン(分析官・講師)